今年の春闘ではリード役のトヨタ自動車を筆頭にベアを復活させる企業が目立った。賃上げが中堅・中小企業にどれだけ波及するのかが今後注目されるが、来年以降も持続的に賃金は上がっていくのだろうか。(文・溝上憲文編集委員)
今春闘のトヨタ自動車の賃上げ額はベア込みで1万円、賞与は244万円。過去最高額の賞与に加え、1万円は1993年以来の21年ぶりとなる額である。トヨタといえば02年、日経連会長の奥田碩会長(当時)が「ベアはなくてもよい。業績がよければ一時金で報いればよい」とベアゼロを宣言。以来、賃上げ否定路線を貫いてきた。その封印を今回解いたことになる。
すでに自動車、電機、鉄鋼など主要製造業を中心に昨年を上回る賃上げ企業が続出しているが、さらにファミリーマート、ローソン、イトーヨーカ堂、ニトリなど小売業が相次いでベアを実施するほか、外食の王将フードサービスが月額1万円を引き上げるなど賃上げラッシュとなった。
日本経済新聞社の調査でも、賃上げを回答した主要企業の約7割の経営者がベアを実施すると答えている。日本総合研究所の山田久調査部長は、今年は15年ぶりの大幅な賃上げ率になると予測する。「政労使会議の賃上げ合意や政府の賃上げ推進姿勢が鮮明になる一方、客観的に見ても、付加価値に占める人件費の割合を示す労働分配率もじつはかなり下がってきており、企業の支払い余力は十分にある。
昨年までの春闘は定期昇給を確保できるかできないかが焦点となり、賃上げ率も1%台後半で推移してきたが、今年は2%台半ばぐらいに上がる可能性もある。2000年初頭のいざなぎ越え景気を上回る97年の金融危機以前の水準に届くかもしれない」
労務行政研究所が今年1月に発表した東証上場企業の労使、労働経済の専門家を対象に実施した賃上げ予測調査によると、14年の平均賃上げ率は昨年を上回る2.07%だったが、山田氏は「この予測は過去数年の実績に比べて0.2ポイント程度低い。そうなると実績は2.3%と見込まれる。ここにきて上乗せの雰囲気も出ているので2.5%になる可能性もある」と指摘する。
企業側も上げ潮ムードを否定しない。今年度過去最高益を見込む不動産業の人事課長は「賞与は前年を大幅に上回る1.6倍を支給する予定だ。ベアについては人事部の引き上げ案に対し、当初経営陣は消費税後の業績の落ち込みを懸念し、微妙な状況だった。だが、ここにきて政府の賃上げ要請など世の中の動きや業界団体の動向を見て10年ぶりに実施することに踏み切った」とその経緯を明かす。
ベアは実施しないまでも給与全体の底上げを実施する企業も多い。リーマン・ショック後の不況で国内工場の一部閉鎖に追い込まれた住宅部品メーカーの人事課長は「業績は急回復したが、円安など市況の変化の影響が大きい。それでも社員に報いるために夏のボーナスは期待してもいいよと、公言している。経営サイドからも従業員に報いるために賃金の配分を工夫するように言われている」と語る。
今年は例年を上回る賃上げが確実な情勢だが、ただし社員全員が上がるわけではない。もちろん賞与の底上げはあるにしても「管理職層が上がるとは限らない。90年代は管理職の給与は組合員と連動し、全体を底上げしていたが、今の管理職には定昇がないところも多い。一律ベアではなく若手の給与を増やしたり、手当を厚くするなど企業によって賃上げの形が異なる」(山田氏)からだ。
いずれにしても長く続いた賃金の下げ止まりから一転し、賃金上昇に向けて好スタートを切ったが、来年以降も持続的に給与は上がっていくのか。賃金の原資は収益であり、企業の生産性が持続的に伸び、そのパイの一部を賃金に充てるという好循環が必要になる。
山田氏は持続的な賃金上昇を可能にする要件を二つ挙げる。「一つは収益を上げる事業モデル構築のための大胆な事業再編と成長分野への人の移動を促す雇用流動化の実現だ。たとえば海外生産の収益を日本に還流し、国内の開発投資に振り向けて海外で生産・販売するビジネスモデルを確立する。そのために不採算事業の整理で発生する余剰人員がスキルを磨き、成長事業分野に円滑に移動できる企業と国によるセーフティネットを整備することだ。もう一つはかつて労使が賃金引き上げる基準だった生産性を軸に賃金を決める方式を復活し、生産性が上がればどれだけ賃金を上げるかのという仕組みを企業内で議論して決めることだ」
かつて日経連が賃上げの指標とした「生産性基準原理」のような新たな仕組みを個別労使で作ることが不可欠ということだ。逆にこの成長シナリオが実現しなければ、海外移転の加速で国内産業が空洞化し、失業者が増えれば消費は冷え込み、賃金が上がらないというリスクが現実化する可能性もある。企業の構造改革と国内の高効率の生産拠点への設備投資、それによる賃上げが来年以降も継続するかどうかが、大きな試金石となることは間違いない。