目標達成計画から評価表を作るには? 退職願の意味【初任者でも分かる!ワインバーで学ぶ目標管理と人事評価】第9回

本連載では目標管理と人事評価について、牛久保潔氏にストーリー形式で数回にわたり解説してもらいます。ワインバーを舞台に、新任最年少課長に抜擢された主人公の涼本未良と共に目標管理と人事評価について分かりやすく学べます。

登場人物

あらすじ

突然最年少女性課長に抜擢された未良は、栗村マスターによるバーでの勉強会で目標管理と人事評価の基礎を学び始めた。
今回は、目標達成計画からどのように評価に落とし込むか、評価表の例を使って説明する。そしてそんな矢先に部下から退職願が…

今までのお話を読む
第1回「そもそも人事評価とは? 新任最年少課長が挑む目標管理の基本」
第2回「目標管理評価制度の基本と運用ポイントとは? 新組織スタートで揺れる営業二課」
第3回「目標達成計画の作り方とは? 焦る心と家族の温かさ」
第4回「目標から目標達成計画をどう落とし込む? バーのリモートオフィス化計画を例に詳しく解説」
第5回「目標達成計画の難易度はどう設定する? 質問会でこれまでの疑問を解決」
第6回「OKRとは? 実際に目標達成計画を立てるため、質問会は続く」
第7回「目標達成計画に基づく仕事結果をどう評価するか いよいよ職場で実践」
第8回「目標管理評価制度の運用で、年功ではなく成果によって評価が決まる 目標達成計画を課内に公開しプラスに活かす」

評価表

会議室。

「じゃあ、この目標達成計画に沿って進めます」
営業二課の課員である百瀬は、目標達成計画について未良と合意した後、笑顔で言った。
「はい、頑張りましょう!」
「ありがとうございました」
「これまで二、三度、百瀬さんの目標達成計画について打ち合わせてきたけど、目標達成計画はあくまで手段だから、こうして合意はしたけど、一つ一つの作業を目標にするんじゃなくて、あくまでアサインされた目標自体を見失わないようにね。『計画した10項目中、8項目できたら機械的に80点もらえる』というようなことでもないから……」
「はい、その話、前にも聞いたので大丈夫です」
百瀬が笑った。
「あ、そっか! 言ったっけ! ごめん!」
未良は、笑いながら頭を掻くと、「今後、毎週数分ずつでも進捗を確認していこうと思ってるし、できることはするから、困ったことがあれば遠慮なく言ってね」と続けた。
「ありがとうございます。あの……、失礼な言い方かもしれませんが、ボク、最初、涼本さんは、女性課長を増やすためのお飾りだって聞いてたんです。だから特に何もされないって……」
「え? そうなの? そういうのでよかったのかな?」
「でも、まったくそんなことないですね。この前、和泉さんと竹居と、これまでこんなに親身になって仕事の相談に乗ってくれる人はいなかったねって話してたんです。きちんとマネジメントしてもらえてありがたいと思ってるし、成長できるチャンスだねって……。ボクたち、涼本さんのこと応援してるので頑張ってくださいね」
百瀬が両手でガッツポーズを作った。
「……こちらこそ、……ありがとう」 百瀬が退室した後、未良は窓の外、少し早く咲き始めた桜を眺めながら、自然と顔の表情が緩むのを両手で覆った。

夕方、ワインバー。

「部下と話していて一番難しいと感じるのは、難易度の設定なんです。成果が一緒でも難易度が高ければ評価が良くなると思って全部の項目を高い難易度に設定しようとする人がいます……」
未良が困った表情で言った。
「それは起こりがちなことですね。受け取った目標達成計画の難易度がおかしいと思ったら、まず、似たような仕事をしている同じグレードの社員と比べてみることをお勧めします。そうすると、『これは見直しを指示する必要がある』というものがわかってきますし、目標達成計画を公開するなら、他の人の例を見せながら話をすることもできます」
「たしかにそうですね」
「でも、根本的に解決しようとすれば、難易度設定の時にお話したように、『その課の主な業務の難易度付き業務リストを作る』というのが一番いいと思います。それが難しいなら、『遂行困難度と経営影響度から成る難易度表を利用する』というのもいいでしょう」
「その難易度付き業務リストを作る時、最初にどうやって想定するグレードとか等級を決めるんですか」
「おそらくどんな組織でも、これまでにも似たような業務が多くあったものと思います。なので、過去の評価の事例を見ながら作るのがいいでしょう。『この業務は、このグレードの人がやって、C評価になることが多い』などという情報を参考にするんです……。もし、過去の評価例を使えない状況にあるなら、課員と一緒に主な業務をリスト化して、どのくらいのグレードや役職の人が担当するべき業務かを相談してもいいでしょう。でも、個人の実際の評価に絡めて話をすると話がまとまらなくなっちゃうので、注意しましょう」
「はい、気をつけます!」
未良が頷いた。

「評価する時、上司として一番大切にしなくちゃいけない思いみたいなものってありますか?」
「上司としての思いですか……、大きな質問ですね。まず、『上司として』っていうところですけど、これは評価に限ったことではないですが、私は上司が、『部下でいてくれてありがとう』っていう感謝の気持ちを持つことは大切だと思っています……」
「感謝……ですか? それってなんだか親が子供に、『私のもとに生まれてきてくれてありがとう』って言ってるみたいで、会社とか業務には結び付き難いというか、場合によっては〝綺麗ごと〟ってとられないでしょうか……」
未良が不安そうに首を傾げた。
「いやいや、わざわざ声に出して言う必要はありません。あくまでそういう気持ちを持っておきたいということです」
「ああ、よかった……」
「ただ未良さん、前に上司の心得として、山本五十六さんの言葉についてお話したのを覚えてますか?」
「えっと……『やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば人は動かじ』ですよね?!」
「おお、すごい!」
栗村が親指を上げた。
「その後、『話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず』って続くんですよね?」
丹羽がドヤ顔で自ら両手の親指を上げた。
「すごいね! その通り!」
栗村はそう言うと、「これってよく見ると、〝上司〟だけじゃなくて、〝子育て〟にも共通する考え方だと思いませんか?」
「あっ、言われてみればそうですね!」
「上司って、時に厳しいことも言わなくちゃいけないですけど、まあ、子に対する愛情とまではいかなくても、ある種似たような思いやりとも上司愛とも言えるような気持ちが土台にないと、なかなかうまく伝わらないように思うんです」
「たしかにそんな信頼関係があれば、何か難しいことがあっても、簡単には壊れたりしないでしょうね……」
未良が大きく頷いた。
「はい、そう思います。……その上で、さっきの、『評価する時に大切なこと』っていうのを考えてみると、私は、『公平さと透明性』じゃないかと思っています。これ無しには、部下は達成感も納得感も得られませんから……。まあ、会社の規模とか、システム化の度合いによって、どこまで精緻に行うかという問題とか、他の人事施策との連携も考える必要はありますけどね……」
「他の人事施策との連携ですか?」
未良が怪訝そうな表情で聞いた。
「そうです、思い付きでいろいろな素晴らしい制度を入れても、全体として考えていないために、あちこちに矛盾や問題が発生する、いわゆる合成の誤謬が起きてしまう例は無数にありますね」
「なるほど、ありがとうございます!」
未良が笑顔で頷いた。
「ご、ごうせいのごびゅ~?」
美宇が狐につままれたような表情で聞いた。
「一つ一つが正しくても、全体で見ると間違っていたりうまくいかないことですよね?!」
丹羽が栗村の顔を覗き込んだ。
「あ、そうそう、正解!」
栗村が笑顔で頷いた。
「あの……、評価表の書式ってこういうのがいいっていうものはありますか?」
美宇が聞いた。
「こうじゃないといけないというのはありません。でもこれまでお話してきたことをベースにするなら、成果評価は目標達成計画をもとに評価することになりますから、目標達成計画の最終的な点数と、別に計算するスキルなどの評価点数を足すような書式になるでしょうね」

「だいたいこのような内容を網羅できていればいいんじゃないですか」
「一番下の備考欄は何に使うんですか?」
「もちろん、自由に使ってもらえばいいんですが、例えば、『今後こういう点に気を付けましょう』とか、『今回、プレゼンの機会がなかったので、次の期にはそういう機会を用意しましょう』というような、上司と部下の約束事を書いておくのはどうでしょう。あるいは、もともと評価結果というのは、後になって振り返った時、『ああ、この人はAが続いている』とはわかっても、具体的にどういうことが得意で、どういう時に特に力を発揮し易いかなどはわからないことが多いものです。そこでこういう欄を使って、『人と人の間に落ちてしまうような業務を率先して行うことができる』とか、『他人のせいにしない』、『ストレスフルな環境でも場を和ませることができる』などコメントを残しておくと、次の上司も参考にできると思いますよ」
「そういうコメントが残ってたら、私ももっとやり易かったと思います……」
未良が頷いた。
「評価結果を賞与や給与の計算に使うことばかり頭にあると、どうしてもAとかBとか記号で考えたくなるのですが、その後のマネジメントに有効にいかことを考えるなら、言葉も残しておくといいでしょうね」
「そうですね。私もそうしたいと思います。やっぱりマネジメントに活かしたいし……」
未良が微笑んだ。

「……それから、これは備考欄に書いても、別の項目を立ててもいいと思いますが、『将来の夢』とか『五年後の目標』のようなことを聞き出して書いておくのもお勧めです。通常、目標管理評価制度においては、上司がアサインした目標の範囲において、部下が自由に計画を立案することになります。そのためどうしても、これまでの経験や知識をもとに積み上げながら考えざるを終えません。しかし、そうした枠の外の、まったく別の視点から物事を大きく考えることは、新しい発想や気付きを生み易くしますし、業務上のブレークスルーを得るにも有効です。そこで、『将来の夢』、『五年後の目標』のようなことを聞き出して記載しておいて、評価などの機会に一緒に考えたりすることはとてもいいことだと思います。……ただ評価って、『ここはできなかった』と、指摘することも多くて、どうしても厳しい雰囲気になりがちですから、こうした将来のことを聞くような時は特に、いいところを見つけて伸ばすような前向きな気持ちを大切にすることが必要ですね」
「〝将来の夢〟って、何でもいいんですか?」
美宇が手を組み、祈るようなポーズで聞いた。
「あはは、何でもいいですけど、業務に関係ないことを無理に話させることはできないので、ご本人が話したい範囲にとどめておくのがいいと思います……。それから評価とは関係なくなっちゃうかもしれませんですが、そうしたことは、厳しいことも言わざるを得ない評価とは別のタイミングにやるとか、もっと大所高所から話のできる上位の人が行うのもいいと思いますね」
「なるほど……」
「ただ一方で、そうした方法をとるなら、現実的には業務にあまり関係ないことのために、継続することが難しくなると思うので、『五年後に会社をこうしたい』『その中で私はこういうことをしたい』というような業務に結び付けておくことがいいでしょうね……」
「わかりました。ありがとうございます!」 美宇が笑顔で頷いた。


「未良、おはよう!」
キッチンの自動販売機でコーヒーを買っていた丹羽が声をかけた。
「この間、二課の堀越と馬場に会った時、褒めてたよ」
「ホント……?」
「無駄なミーティングが減ったって言ってた」
「あ~、それ、嬉しい! 一人一人話を聞いてみたら、ミーティングが多くて作業ができないって言ってたから、ミーティングの時はいつも目標達成計画を見られるようにして、目標に関係ないことはできる限りやらないってことにしたの」
「それって目標達成計画が、目標の進捗管理やコミュニケーションのツールになってるってことだよね。すごくいいと思う!」
「ありがとう! でもまだ自分で何をしていいかわからないから、栗村さんに教えてもらったことをそのままやってるだけだよ……。守破離の守だね……」
「しゅ、しゅはりの……しゅ……?」
丹羽が顔を突き出して繰り返した。
「あはは、そう、そう! ……そう言えば、栗村さんにはいつも頼ってばかりだから、どこかでお礼しなくちゃって思ってるんだ」
「ああ、栗村さんなら気にしなくて大丈夫だよ。時々みんなが勉強会の後で飲んでくれるし、彼自身、楽しんでるみたい……」
「迷惑じゃないならいいんだけど……。栗村さんって仕事のことよく知っているし、好きそうに思えるんだけど、どうして会社辞めちゃったの?」
「それ聞いたことある。……最後は外資系の製薬会社で人事部長をしてたんだけど、会社の利益の大半を出していた薬品に不具合が見つかって、突然販売中止になったんだ。それで多くの社員をリストラしたんだよ。2000人中1200人をリストラしたって言ってた……」
「えっ……、そんなに? ……すごいね」
「うん、栗村さんの発案で小さな介護の会社を買って、100人以上そちらに回したりもしたんだけど、焼け石に水で、結局、1200人をリストラしたらしいよ。それに親会社の方針で社歴の浅い人を中心に辞めさせることになったから、自分が合格出して説得して入社させたばかりの新人とか、入社承諾してもらった内定者まで取り消さなくちゃいけなくて、だいぶ辛かったみたい。どこかの大学では、就職部の人にコーヒーかけられたって言ってたし、内定切りの件では新聞にも名前が載って、嫌がらせの電話もかかってきたらしい……」
「辛い思いをされてるんだね……」
「内定切りをしたら新聞に名前が出ちゃうかもしれないし、いくつも裁判を抱えることになるだろうから、自分がさっさと辞めて部下に押し付けることもできなくて、一段落するまではと思って会社に残ったんだって……。でも結局、親会社を説得して社員に配る退職手当も手厚くできたり、内定者にも少し払えたこともあって、裁判は一件も起きなくて済んだって言ってた。でもその頃、栗村さんに声かけられたら肩叩かれるんじゃないかって、会社で誰も目も合わせないし、ランチにも行けないような雰囲気の日が続いたみたい……。それで一連のリストラの目途がついた時点で、辞表を出したって聞いた」
「そんなことがあったんだ……」
「そう、だから未良たちが人事業務について、いろいろ相談してくれることが純粋に楽しいって言ってた……」
「それ聞けて良かった。ありがとう」
「……じゃ、そういう訳で、今日も栗村さんのところ行く?」
「うん、行く、行く! 美宇と由貴にも声かけてみる! あ、そう言えば、由貴が、『丹羽くんと料理するの楽しい!』って言ってたよ!」
「ちょ、ちょ、ちょっと、それ本当? 由貴さんが言ったの? 感激なんだけど……」
丹羽が目を丸くして、満面の笑みで言った。
「うん、昨日言ってた……」
「そう……、昨日……、由貴さんが……、ボクとの料理が……、『楽しい』って……?」
「うん……、あっ、丹羽くん、ちょ、ちょっと待って! お願い、こんなところでやめて! 涙、流さないでよ! あの……、涙じゃなくて、勇気を出しなさいよ!」 未良は、目に涙を溜めた丹羽を見て、焦って言った。

退職願

「涼本さん、今、少しいい?」
外出から帰社した未良に、営業二課の和泉泰が、親指と人差し指を顔の前で平行にして聞いた。
「あ、はい! 大丈夫です」
二人は会議室に入り、向かい合って座った。
「お疲れさま。申し訳ないけど、これをお願いしたいんだ……」
和泉はそう言うと、内ポケットから退職願と書かれた白い封筒を取り出し、未良の前に差し出した。
「こ、これって……。急にどうしてですか? 私が何か……?」
両手で受け取った未良は、封筒に書かれた『退職願』の文字を凝視して顔を上げた。
「いやいや、涼本さんは課長として頑張ってると思うよ。……実は、田舎で農家をやってる父親から、以前から戻ってきて欲しいって言われてて、これまでも週末には手伝ってたんだけど、このところだいぶ身体が弱ってきちゃって、これ以上無理させられないと思ってね……」
「そうでしたか。じゃあ、農家をお継ぎになるんですか」
「うん、そうだね……」
「あの……、和泉さんがしばらくお休みをされたら済むようなお話ではないんですね?」
「そうなんだ。長年の無理がたたって、もう引き継いであげないと……」
和泉が小さく首を振りながら言った。
「それは大変ですね……。タイミングはもうお決めになってるんですか」
「そこにも書いたけど、今ならまだ、あまり引継ぎ事項もないし、有給休暇も少し使わせてもらって、来月末と思ってる」
和泉が退職願を顎で指して言った。
「そうですか……。仕方ないですね、承知しました。……これからいろいろお力を貸していただきたいと思っていたのでとても残念ですが、笑顔で送り出さないといけませんね」
未良はそう言うと、退職願と書かれた封筒の端に小さく今日の日付を書いて手帳に挟み、「ではお預かりして、人事にも報告させていただきます」と続けた。
「せっかく新しい組織もできて、これからって時に悪いね、よろしくね」

夕方、ワインバー。
「和泉さんが会社辞めるって……。今日、退職願渡されちゃった……。何だか自分を否定されたみたいな気分だな……」
栗村が勉強会の準備をしている間、未良が美宇に言った。
「ああ、私も今日、人事で聞いたけど、和泉さんはしょうがないよ。一、二年前から、数年以内には親の看病をしながら仕事を継ぎたいって言ってたらしいよ……」
「そうなんだ……」
未良が口を尖らせ、上下に振りながら言った。
「部下が辞めるの、初めてだからこたえるかもしれないけど、未良のことを嫌がって辞める訳でもなさそうだし、気にしない方がいいよ」
丹羽が笑顔で言うと、由貴も、「未良がいろいろきちんとやろうとしてるからこそ、中途半端なタイミングで迷惑をかけたくないって思ったのかもしれないよ……」と続けた。
「ありがとう、そうかもね……。でも、『数年以内』って言ってたのが、私が課長になってすぐって……」
力なく言うと、未良は大きくため息をついた。

「『引く力』と『押す力』って聞いたことありますか?」
準備を終えて横に座った栗村が見回して言った。
「『引く力』と『押す力』……ですか。知らないです」
未良が首を振りながら言うと、美宇、未良も目を合わせて、首を振った。
「これは、人が退職、転職する時の原因をグループ分けしたもので、『引く力』っていうのは、他社からの魅力的な条件提示とか、興味深い業務内容、働き易そうな勤務体系、高い知名度、最先端の技術、おしゃれな職場、今いる会社とは関係ない将来の夢、あるいは今回みたいに、親の仕事を継ぐ場合などで、主に原因が会社の外にあるものを言います。どちらかと言うと、本人にとって前向きな理由であることが多いですね。もう一方の『押す力』っていうのは、本人が離職を決断する原因が社内にあるもので、評価への不満、上司との人間関係や職場環境の悪さ、長時間労働、業績の低迷、あるいは会社からの肩たたきなどが考えられます」
「『引く力』と『押す力』の両方っていうこともありますか?」
丹羽が聞いた。
「それはあるね。それに、最初は『押す力』が強くて転職活動を始めたけど、思いのほかいい話があって、いつの間にか『引く力』の方がずっと強くなったなんてこともあるだろうね」
「ああ、そっか……」
「まあ、ここでは話を分かり易くするために、そうした変化するようなケースは無視してお話しますが、一般に、『引く力』の強い退職、転職っていうのは、現状に不満を感じてなくても辞めようということなので、それだけ理由が強く、慰留が難しくなります。一方、『押す力』が強い場合っていうのは、社内にある問題を解決できれば、辞める理由がなくなるので、慰留できる可能性も高くなります」
栗村が見回して言った。
「なるほど……」
未良が頷いた。
「そういう意味では、未良さんが話してくれた和泉さんの例は、『引く力』が圧倒的に強いので慰留は難しく、まあできても、時期を暫く延ばすとか、『いつでも戻ってきてくださいね』って言っておくことくらいかもしれませんよ……。だから、あまり考えすぎない方がいいと思います」
「ありがとうございます、そうですね。少し気が楽になりました」
未良が首をかしげて微笑んだ。

「せっかくの機会なのでつけ加えて言うと、私がとてももったいないと思うのは、『押す力』による退職の中に、経営者、評価者、被評価者が、自社の目標管理や評価のルールを知らないために、上司と部下がコミュニケーション不足になったり、人間関係が悪くなったり、評価に対する不満がたまって辞めていく人が多いことですね。この図を見てもらえますか?」
「はい……」

「これは、退職理由について、縦軸を『会社にとっての不幸度』、横軸を『個人にとっての不幸度』としたものです。
会社にとって不幸度が高い退職っていうのは、やはり実績が高い人が辞めることで、一方、『個人にとっての不幸度』というのは、『押す力』が高いほど、不幸度が高い可能性が大きいでしょう。
今回の和泉さんのご退職は図の左上に当てはまるでしょうから、この面から見ても慰留は難しいということになります。でも赤字で書いた、右上の『会社と個人の両方に不幸な離職』っていう部分に当てはまるもの、つまり、実績を上げている社員が主に『押す力』によって退職するような場合なら、比較的手を打ち易くなります。さっき言った、評価制度への誤解や理解不足なんていうのもここに入るでしょうね……」
「たしかに、目標管理評価制度をしっかり伝えたり、運用したりできれば、ここの退職は減らせそうですね」
「その通りです! 難しいパターンの退職を減らすより、まずはこの部分の退職を減らせるといいですね」
「そうですね。ここなら自社の努力で対応できることが多いですもんね……」
未良が笑顔で言った。

「ただ一般論として、細かいことを二つお伝えしておくなら、一つ目は、退職願はすぐには受け取らない方がいいと思います」
「どうしてですか?」
「退職願を受け取ってしまうと、そのタイミングで会社が退職を認めたととられて、あとは民法の規定に従って、そこから二週間での退職を主張されることもありますから……」
「そうなんですか……」
「なので、特に慰留したい場合には、受け取らずにお返しできるといいですね。……まあ、辞めることはご本人の自由ではあるんですけど……」
「はい……」

「それから、どなたかが辞める時は必ず、退職インタビューをするといいですね」
「退職インタビュー……ですか?」
「そうです。慰留とは別に、退職が正式に決まった後、改めて退職理由や感じていた課題などについてお聞きするんです。決して、『あいつは裏切り者』なんて態度ではなく、『同じような退職を繰り返したくないので、今だから言えるということをぜひ気軽に教えてほしい』と真摯に聞くんです。退職する場合、上司との関係に問題を感じている人は非常に多いので、この退職インタビューを行うのは、上司ではない、第三者がいいと思います。退職する人が尊敬している人でも、人事でもいいと思います。会社を良くすることを考える際、退職インタビューは、まさに『宝の山』ですから、批判にも耳を塞がず、積極的に課題を集められるといいですね」
「つまり、その人の退職はしょうがないけど、次の退職を防ぐということですね?!」
美宇が聞いた。
「そうです! それにその人についても、改めて退職理由を確認したり、『押す力』が強いなら、解消されれば戻ってくる可能性もあるのかを確認したり、今後も求人などの連絡をとらせてもらう了解を得ておくことは意味があると思いますね」
「ああ、そうですね! 一度辞めてもまた応募してくれることを期待できるんですね」
「その通りです! これは本当は、退職者だけじゃなくて、新卒採用の応募者についてもそうした了解を得ておくと、数年後に求人の案内を送ることもできるんですけどね」
「なるほど、人材の有効活用ですね!」
丹羽が笑顔で人差し指を立てた。 「ははは、確かにそうだね!」

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牛久保潔

プロッソ 代表取締役社長/採用戦略コンサルタント。1964年、埼玉県生まれ。日本DEC(現、日本ヒューレット・パッカード)、日本オラクルを経て、2003年に独立し、プロッソを創業。業種を問わず、大手企業から中小の成長企業まで、採用と離職のコンサルティング、採用業務のアウトソーシング、面接担当者トレーニングなどのサービスを提供している。

  1. 人材の価値とは? 目指すは「目標管理と評価の二課」【初任者でも分かる!ワインバーで学ぶ目標管理と人事評価】最終回

  2. 成果評価とスキル評価とは? フィードバックの仕方を学ぶ【初任者でも分かる!ワインバーで学ぶ目標管理と人事評価】第10回

  3. 目標達成計画から評価表を作るには? 退職願の意味【初任者でも分かる!ワインバーで学ぶ目標管理と人事評価】第9回

  4. 目標管理評価制度の運用で、年功ではなく成果によって評価が決まる 目標達成計画を課内に公開しプラスに活かす【初任者でも分かる!ワインバーで学ぶ目標管理と人事評価】第8回

  5. 目標達成計画に基づく仕事結果をどう評価するか いよいよ職場で実践【初任者でも分かる!ワインバーで学ぶ目標管理と人事評価】第7回

  6. OKRとは? 実際に目標達成計画を立てるため、質問会は続く【初任者でも分かる!ワインバーで学ぶ目標管理と人事評価】第6回

  7. 目標達成計画の難易度はどう設定する? 質問会でこれまでの疑問を解決【初任者でも分かる!ワインバーで学ぶ目標管理と人事評価】第5回

  8. 目標から目標達成計画をどう落とし込む? バーのリモートオフィス化計画を例に詳しく解説【初任者でも分かる!ワインバーで学ぶ目標管理と人事評価】第4回

  9. 目標達成計画の作り方とは? 焦る心と家族の温かさ【初任者でも分かる!ワインバーで学ぶ目標管理と人事評価】第3回

  10. 目標管理評価制度の基本と運用ポイントとは? 新組織スタートで揺れる営業二課【初任者でも分かる!ワインバーで学ぶ目標管理と人事評価】第2回

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