「『一身上の都合』と言われて、それ以上何も聞けなかった」「『しょうがない退職』もあると思う」——人事担当者や管理職の方からは、「分析不可能な退職」もあると気づいています。では、実際に退職を決めた社員は何を考え、どんなプロセスで「辞める」という結論に至るのでしょうか。
今回は、41歳の業務改善担当・Kさん(男性)と、キャリア相談者・佐野創太氏との相談の様子を通じて、退職を考える社員のリアルな心境と思考プロセスを佐野氏に連載で解説してもらいます。
佐野氏は退職学(R)(resignology)の研究家としてこれまでに1500人以上のキャリア相談を実施し、20〜50代の幅広い社員の本音に触れ続けています。その経験を『脱会社辞めたいループ』(サンマーク出版)、『ゼロストレス転職』(PHP研究所)などの著書にまとめています。
他にもエース社員の退職を防いで「選手層の厚い組織づくり」を支援したり、オウンドメディアや採用広報などの情報発信の生産性と創造力をあげるAI編集長としても活動しています。働く人、組織作り、事業の3つの視点を持っています。 Kさんの相談からは、「社員自身も気づいていない退職理由」の存在が浮かび上がってきました。
健康問題という明確な理由があったはずなのに、転職活動を始めると大きくブレ始める。その背景には何があったのか。この退職は本当に「しょうがない退職」だったのでしょうか。
(文:佐野創太、編集:日本人材ニュース編集部)
※プライバシー保護のため、相談者の名前・性別・年齢・所属企業名等は編集しています。

「健康問題で辞める」と語る社員が、実は迷い続けている理由
Kさんが退職を決意した理由は、一見すると非常に明確でした。
「2024年に商品の取り扱いの物量が拡大して、より大きな倉庫に事務所が移転したんです。でもその移転先の環境が、自分にとっては厳しくて」
Kさんが働いていたのは、関東にある倉庫です。乗用車用タイヤを大量に収納する倉庫内に、密閉性の低いプレハブが事務所として設置されていました。
「エンジンフォークリフトの騒音と排気ガス、タイヤに練り込まれている化学物質の匂いがこもって、呼吸が苦しいこともありました。私は呼吸器系の疾患になった経験があって、このまま長く続けるのは難しいと感じたんです」
Kさんは職場環境の改善を会社に掛け合いました。自分だけでなく、一緒に働く仲間のことも考えてのことでした。会社側は空気清浄機を導入します。
しかし、Kさんはこう振り返ります。
「周りの人たち全員がタバコを吸う環境だったので、根本的な解決にはならなかったんです」
会社は環境改善に取り組みました。しかし社員の実感としては、何も変わりませんでした。このギャップは、退職を考える社員と会社側の認識のズレを象徴しています。
ところが、退職を決意し転職活動を始めると、思いもよらない感情が湧いてきました。
「エージェントからおすすめ求人が次々と来るんですが、自分にはできないような内容ばかりで。本当に転職できるのか、わからなくなってきたんです」
Kさんには実績がありました。ChatGPTが普及する前から活用し、社長に導入の提案をして成功。複数部署を巻き込んで在庫管理を改善し、毎日22時頃までの残業が当たり前だった職場の労働時間を大幅に短縮。同時に販売チャネルは2つから多数に拡大。事業拡大と労働時間短縮を両立させたのです。
それでもKさんは自信が持てませんでした。
「若い頃に人生に対して迷いがあって。他の優秀な人を見ると、どうしても比較してしまうんです」
私(佐野)はKさんの話を聞きながら、ある構造に気づきました。
退職理由が明確に見えても、社員の内面では複雑な葛藤が続いている。41歳という「人生後半戦」の感覚が、マインドマップを作るほどの慎重さを生み、自己評価の低さが転職のブレーキになっている。「マイナスからゼロにする転職」のはずが、求人を見るたびに目移りし、不安になり、大きくブレていく。
なぜこんなに難しいのか。Kさん自身もまだ気づいていない「本当の退職理由」があったからです。
会社はこの退職を「しょうがない」と受け入れるしかないのでしょうか。
転職活動を始めてから気づく「本当は何がしたかったのか」
私はKさんに質問を投げかけました。
「Kさんは、長期的にどんな仕事に興味があるんですか」
Kさんは少し間を置いて、こう答えました。
「実は、20代の頃からずっと思っていることがあって。『ハローワークの向こう側の人になりたい』って。自分も転職に悩んだ経験があるので、その人の力になれたらいいなって」
この言葉に、私は注目しました。ハローワークの向こう側。就労支援。キャリア支援。これは、「タバコの煙がない環境で働きたい」という退職理由とは、まったく異なる動機です。
「その想いは、どこから来ているんですか?」
私がそう尋ねると、Kさんはさらに深い話をしてくれました。
「父が伝統工芸をやっているんです。ものづくりをしている人たちへの敬意があって。自分も、ものづくりをする人を支える仕事がしたいという気持ちがあるんだと思います」
この瞬間、私はKさんの退職の本質が見えてきました。
Kさんは「マイナスからゼロにする転職」——健康問題を解決する転職——をしようとしていたはずでした。しかし転職活動を進める中で、違和感が湧いてきた。
「本当は自分は何がしたかったのか」その答えが、対話を通じて初めて言語化されます。
「ゼロからプラスにする転職」——ものづくりを支える仕事、人の力になる仕事——へと、退職の意味が変わっていったのです。
Kさんは自分を説明し始めました。
「私がやってきたことを振り返ると、一貫して『誰かを支える』『環境を良くする』という行動なのかもしれません。ChatGPTの導入提案も、複数部署を巻き込んだ業務改善も、一つの同じ動機からはじまっています」
Kさんは自己評価の解像度も上げていきます。
「私は『誰かのために』動く人なのかもしれません。自分のためには動き切れない。他者貢献はできるのに、自己評価ができない」
私は具体的な職種を提案しました。
「Kさんの経験とスキルを考えると、業務改善コンサルタント、ITコンサルタント、社内のDX推進担当などが射程に入ります」
「そんなハードルが高い仕事は…」
Kさんは戸惑いましたが、私は続けました。
「Kさんが持っている『現場経験×IT知識』という組み合わせは、非常に求められているスキルです。AIや業務改善のコンサルタントには、どこを効率化していいか、どこはしてはいけないかの感覚が必要です。これは現場にいた人でないと分からない」
退職理由は、退職を決めた時点では完成していない。転職活動というプロセスを経て、初めて「本当の動機」が言語化される。
会社が退職面談でいくら丁寧に「本音を聞かせてください」と尋ねても、社員自身がまだ気づいていない段階では、答えようがないのです。なぜなら、肯定的なフィードバック、貢献している内容の言語化をする機会が少ないからです。 退職者面談の構造的な限界です。もっと前の普段の会話や1on1で実施する内容です。
つまり、「しょうがない退職」かどうかは、退職面談の時点ではもう判断できないのです。
「一身上の都合」と言われたとき、会社がすべき2つのこと
では、「しょうがない退職」と「防げた退職」を見極めるために、会社は何をすべきなのでしょうか。
Kさんとの対話を通じて、私は一つの重要な事実に気づきました。会社は、Kさんの本当の価値を理解していなかったのではないでしょうか。
Kさんは現在、年収500万円です。しかし同時に、転職で年収が下がることへの不安を抱えていました。
私は指摘しました。
「Kさんは、業務改善コンサルタントやDX推進担当が射程に入る経験とスキルを持っています。現場経験とIT知識という組み合わせは、市場価値が高い。でもKさん自身は地元から通える範囲で探していて、『できなければ電気工事士の資格を取る』と考えている」
これは、自己評価と他者評価のギャップです。会社が「代わりはいる」と思っている社員が、実は市場価値の高い人材だったというケースは非常に多いのです。特にミドル層の自己評価の低さと、会社側の評価不足が重なると、優秀な人材は静かに去っていきます。
では、会社は何をすべきなのか。2つのアプローチがあります。
一つ目は、自分たちがどんな会社にしたいのかを言語化することです。
綺麗な言葉を掲げる必要はありません。「働きやすい職場」といった抽象的な言葉でもありません。「それなら残る、残らない」がジャッジできる基準になっていることが大切です。
倉庫内での作業効率を最優先するのか、社員の健康を最優先するのか。個人の喫煙の自由を尊重するのか、受動喫煙のない環境を整備するのか。
こうした具体的な方針を明確にすることで、会社は「誰を残すべきか」「誰との別れは仕方ないのか」を判断できるようになります。社員も同じです。
会社のビジョンと合わない退職は、むしろ健全だという意思決定ができるようになります。退職は100%悪ではないのです。これが本当の意味での「しょうがない退職」です。
二つ目は、「この社員の1年先にどんな成長した姿にできるか」を会社の役割と考えることです。
「一身上の都合」と言われたとき、「何か不満があったのか」と考えるのではなく、「この社員が1年後、どんな成長した姿になれるか」を考える。社員は「この会社にいる未来が見えない」と思ったとき、退職を決意します。
そのためには、退職面談ではなく、日常的なキャリア対話が必要です。社員自身が気づいていない強みや願望を、会社が一緒に言語化する姿勢が必要です。「あなたの1年後の姿は、こうなれると思う」「そのために会社ができることは、これです」と提示できる関係性が必要です。
これができれば、社員は「この会社で成長できる」と実感できます。仮に退職を選ぶとしても、「会社は自分のことを理解してくれていた」という納得感を持って去ることができます。そういった社員は去り際も美しく、アルムナイのメンバーになってくれたり、数年後に出戻りしてきてくれます。
私がKさんとの対話で行ったのは、まさにこれです。過去の経験を振り返り、共通点を見つけ、強みを言語化し、将来の方向性を一緒に考える。これは、本来であれば会社のメンバーの方がしやすいです。なぜなら社員の動きや考え方を、日常的に知っているからです。
私の面談は1時間で終わりますが、会社での会話や数ヶ月、数年です。 すべての社員を引き留めることはできませんし、する必要もありません。「この会社に残る、残らない」が判断できるほど会社を言語化し、未来を提示した上での退職もあります。
そこまでして初めて、「しょうがない退職」であり「健全な退職」と捉えられます。
まとめ:本当の「しょうがない退職」とは何か
退職理由は、社員が退職を決めた時点では完成していない。
Kさんは「健康問題」という明確な理由で退職を決意しました。しかし実際には、「ものづくりを支えたい」「人の力になりたい」という肯定的な願望が、転職活動を通じて初めて言語化されました。
会社が退職面談でどれだけ丁寧に「本音を聞かせてください」と尋ねても、社員自身がまだ気づいていない段階では、答えようがないのです。これが、退職者面談の構造的な限界です。
だからこそ、会社がすべきことは2つあります。自分たちがどんな会社にしたいのかを、「それなら残る、残らない」がジャッジできる基準として言語化すること。そして「この社員の1年先の成長」を日常的に対話し続けること。
この2つを尽くして初めて、会社は「しょうがない退職」かどうかを判断できるようになります。会社のビジョンを明確にし、社員の成長可能性を日常的に対話した上での退職であれば、それは防ぐべき退職ではなく、むしろ健全な退職です。
社員自身も気づいていない退職理由がある。この事実を理解し、2つのアプローチを実践したとき、会社は初めて「しょうがない退職」と「防げた退職」を見極められるようになるのです。
Kさんの退職は「しょうがない退職」だったのか。それは、会社が2つのアプローチを尽くしたかどうかで、答えが変わります。

佐野創太
1988年生。慶應義塾大学法学部政治学科卒。大手転職エージェント会社で求人サービスの新規事業の責任者として事業を推進し、業界3位の規模に育てる。 介護離職を機に2017年に「退職学®︎」の研究家として独立。 1400人以上のキャリア相談を実施すると同時に、選手層の厚い組織になる”リザイン・マネジメント(Resign Management)”を50社以上に提供。 経営者・リーダー向けの”生成AI家庭教師”として、全社員と進める「ゼロストレスAI術」を提供する他、言葉を大切にするミュージシャン専門のインタビュアーAIを開発している。著書に『「会社辞めたい」ループから抜け出そう!』(サンマーク出版)、『ゼロストレス転職』(PHP研究所)がある。


