「あの人が辞めるとは思わなかった。戦力だったのに」
そう語る管理職の言葉を何度聞いたかわかりません。 一方で辞めた社員はこう言います。
「期待されていると思っていたのは、自分だけだったんです」。
すれ違っています。
今回は、通関士の資格を持つ総合職11年目のBさん(30代・男性)と、キャリア相談者・佐野創太氏との相談の様子を通じて、退職を考える社員のリアルな心境と思考プロセスを佐野氏に連載で解説してもらいます。
佐野氏は退職学®︎(resignology)の研究家としてこれまでに1500人以上のキャリア相談を実施し、20〜50代の幅広い社員の本音に触れ続けています。その経験を『脱会社辞めたいループ』(サンマーク出版)、『ゼロストレス転職』(PHP研究所)、『転職・退職を考えたら知りたいことが全部のってる本』(主婦の友社)などの著書にまとめています。他にもエース社員の退職を防いで「選手層の厚い組織づくり」を支援したり、オウンドメディアや採用広報などの情報発信の生産性と創造力をあげるAI編集長としても活動しています。 働く人、組織作り、事業の3つの視点を持っています。
Bさんの相談からは、会社側が「配慮した」と思っている行動が、優秀な社員にとっては「約束の蒸発」として積み重なっていく構造が見えてきました。なぜ通関士資格を持つ総合職社員が、3年越しのあきらめの末に退職を考えるようになったのか。その思考と感情のプロセスを詳しく見ていきましょう。優秀な社員の退職の背景には、会社側が気づきにくい「認識のズレ」が潜んでいます。(文:佐野創太、編集:日本人材ニュース編集部)
※プライバシー保護のため、相談者の名前・性別・年齢・所属企業名等は編集しています。

「異動時の約束」は雇用契約より重い
「あの人が辞めるとは思わなかった。戦力として期待していたのに」
こうした声を管理職から聞くたびに、私(佐野)は思います。会社側が「配慮した」と感じている行動が、社員には全く別の意味で届いていることが、あまりにも多いのです。
Bさんがひとつ上の拠点への異動を受け入れたのは、明確な理由があったからです。
「新規顧客の倉庫オペレーション立ち上げメンバー、そしてゆくゆくは営業担当」
その言葉を、Bさんは信任票として胸に持ち続けていました。通関士の資格を持ち、前部署では顧客対応から売上管理、他部署との連携まで担ってきた9年目の総合職社員にとって、「立ち上げから関わる仕事」は単なる業務説明ではありません。「この会社はあなたの力を必要としている」というメッセージそのものだったのです。
ところが異動から数か月後、その約束は静かに消えていきました。
新卒社員の限界申告。人員不足。A社ルーチン業務への組み込み。個別の出来事としてみれば、いずれも「仕方のない事情」です。課長もスーパーバイザーも謝罪しました。悪意はどこにもありません。
しかし、Bさんの目にはこう映っていました。
「何一つ明示されないまま、当初の説明が人員不足の名目で流れていく」
注目すべきは「流れていく」という表現です。誰かが奪ったわけではない。爆発的な出来事があったわけでもない。ただ、静かに、気づいたら消えていた。これが「蒸発退職」の本質です。
会社側の論理では「緊急対応として最善を尽くした」。社員側の体感では「約束がなかったことにされた」。この認識のズレは、悪意がないだけに余計に深く刺さります。 信任票は一度失われると取り戻すことが極めて難しい。Bさんの表情が物語っています。
退職スイッチは「謝罪はされた。でも何も変わらなかった」で押される
謝罪された側が、なぜ辞めていくのか。これは多くの管理職が直面する難しい問いです。
厳しい言葉を使うのならば、謝罪は「過去の清算」であって「未来の提示」ではないからです。
Bさんは課長からもスーパーバイザーからも、配置換えについて謝罪を受けました。スーパーバイザーからは事前に「Bさんに申し訳ないお願いをしなきゃならない」という言葉もありました。誠意は伝わっていた。それは間違いありません。
しかしBさんが本当に必要としていたのは、謝罪ではありませんでした。
「慰めや誉め言葉ではなく、たった1つでも今後期待されるロールの提示が貰えればいい」
この一言に、すべてが凝縮されています。9年間、総合職として組織に貢献してきた社員が求めているのは、「これからあなたにはこう動いてほしい」もしくは「これからを決めるために一緒に考えてほしい」だったのです。この一言です。
ところが係長とスーパーバイザーとの立ち話では「わからない」「とりあえずもうA社でしょ?」という答えしか返ってきませんでした。課長は翌日、増員希望を支店長に伝えたことを周知しました。誠実な対応です。しかし社員の目線では「切れるカードがない」という現実の確認にしか映らない。
謝罪があればあるほど、改善の見通しが示されないことの重さが増していく。
これが「謝罪型拘束」とでも呼ぶべき状態です。誠意ある謝罪が、逆に社員の不満を言い出しにくくさせ、あきらめだけが内側に積み重なっていく。Bさんが「詰めたいわけではない」と自分に言い聞かせながら相談に来た背景には、この構造がありました。
A社業務に入って1か月半。息切れの原因は業務量ではありませんでした。
見通しの立たなさ。それだけです。 謝罪は関係修復の入口に過ぎません。出口、つまり「これからどうなるか」を示せなければ、社員のあきらめは深まるばかりです。
「ここにいる意味」を失うから、退職する
「これをやるために、社宅まで借りて勤めているのか」——Bさんがそう感じた瞬間、退職の輪郭はすでに現れていました。
N支店のA社フロアで、Bさんは毎日手を動かし続けていました。商品撮影、報告、顧客回答の処理、数値入力。量は相当あります。朝から晩まで、手が止まる暇はない。傍から見れば「忙しく働いている社員」です。
しかし内側では、全く別のことが起きていました。
前部署でBさんが担っていた仕事を振り返ると、その落差は明白です。顧客・下請対応、作業単価の設定、スケジュール管理、上司への見込売上報告、他部署との連携。通関士資格を持つ9年目の総合職社員として、組織の中枢に近い判断業務を担っていました。
それが今は、入社2年目の社員に手順を教わりながらのルーチン処理です。
「これは私が総合職というプライドゆえなのか」
Bさんは自分を責めていました。壁を作っているのは自分ではないか、と。しかしこれは、プライドの問題ではありません。人が仕事に意味を見出すとき、そこには必ず「自分にしかできないこと」への手応えが必要です。その手応えが、静かに、しかし確実に蒸発していた。
さらに追い打ちをかけたのが、説明のない既成事実の積み重ねでした。
- 課長・係長と同室だったデスクが、内線1本で撤去される
- 自分が骨子を作った請求明細を、気づけば係長が作っている
- いずれも、事前説明なし
一つひとつは小さな出来事です。しかし「また何も言われなかった」という体験が積み重なるたびに、Bさんの中の信任票はさらに薄くなっていきました。
そしてBさんの相談で私が最も気になったのは、仕事の話ではありませんでした。
以前は気持ちの支えになっていたライブ参加などの趣味への意欲が、状況的に難しくなってきたと語られたのです。週末に作り置きしていた冷凍ご飯を炊き忘れる。これまで当たり前にできていた日常の習慣が、少しずつ抜け落ちている。そして飲酒翌朝の出社の瞬間、「さっきまで座っていたのにまた行くの?」という感覚が初めて湧いた、とも。
これは燃え尽き症状の入口にさしかかっているサインです。
Bさんはこの状況を「ゴールテープのないまま走らされている」と表現しました。100km先なのか、1km先なのかもわからないまま走り続けている。自分で課題を整理して行動するタイプであるがゆえに、ゴールが見えなくても走り続けてしまう。その真面目さが、燃え尽きを加速させていました。
「3年越しの思いが、今まさに具現化されている」
この言葉が示すように、蒸発退職は突然起きません。ロールモデル不在、約束の反故、説明なき既成事実化——それらが長い時間をかけて積み重なった先に、「もういいんじゃないか」というあきらめが生まれます。最終的には仕事への意欲だけでなく、日常生活そのものをも蝕んでいく。 仕事の量ではなく、仕事の意味。社員が本当に求めているものです。
蒸発退職を防ぐために、会社が今日できること
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Bさんの相談を通じて見えてきたのは、「優秀な社員ほど静かに諦める」という構造です。
不満を爆発させない。詰め寄らない。「詰めたいわけではない」と自分に言い聞かせながら、それでも内側では3年越しのあきらめが積み重なっていく。会社側には「よく働いてくれている」としか見えない。その認識のズレが、ある日突然の退職届という形で表面化します。
蒸発退職を防ぐために、今日から始められることが3つあります。
ひとつは、約束が変わるときに「なぜ変わるのか」を丁寧に伝えること。人員不足は仕方のない事情です。しかし「仕方ない」を説明なく既成事実にすることと、理由を伝えた上で協力を求めることは、社員の受け取り方が全く異なります。
二つ目は、謝罪とセットで「次のロール」を提示すること。謝罪だけでは過去の清算にしかなりません。「この状況が落ち着いたら、あなたにはこう動いてほしい」という未来の言葉が、社員のあきらめを希望に変えます。ゴールテープのないマラソンはただの苦役です。社員に見通しを示すことは、管理職の最も重要な仕事のひとつといえるでしょう。
三つ目は、定期的に「あなたに期待していること」を言葉にして伝えること。会社側が「当然わかっているはず」と思っていることが、社員には全く届いていないケースは珍しくありません。「暗黙の了解」には期待できません。 約束を守ることが難しい状況は、必ず生まれます。それでも「約束が変わる理由」を丁寧に伝え続けることが、優秀な社員のあきらめを防ぐ道といえるでしょう。

佐野創太
1988年生。慶應義塾大学法学部政治学科卒。大手転職エージェント会社で求人サービスの新規事業の責任者として事業を推進し、業界3位の規模に育てる。 介護離職を機に2017年に「退職学®︎」の研究家として独立。 1400人以上のキャリア相談を実施すると同時に、選手層の厚い組織になる”リザイン・マネジメント(Resign Management)”を50社以上に提供。 経営者・リーダー向けの”生成AI家庭教師”として、全社員と進める「ゼロストレスAI術」を提供する他、言葉を大切にするミュージシャン専門のインタビュアーAIを開発している。著書に『「会社辞めたい」ループから抜け出そう!』(サンマーク出版)、『ゼロストレス転職』(PHP研究所)がある。




