溝上 憲文 人事ジャーナリスト
新聞、ビジネス誌、人事専門誌などで経営、ビジネス、人事、雇用、賃金、年金問題を中心に執筆活動を展開。近著に、「人事評価の裏ルール」(プレジデント社)など。
企業は「人」がいなければ成り立たないのは自明の理だろう。昨今、岸田政権も人への投資を強化すると発表し、人材投資に重点を置く「人的資本経営」が注目されている。そして、企業内で人材投資の役割を担っているのが人事部であり、今回の件でスポットライトが当たることとなる。かつて脚光を浴びたとされる人事部だが、現在に至るまでにどのような変遷を辿ってきたか、人事部のこれまでの歴史を紐解いていく。(文:日本人材ニュース編集委員 溝上憲文、編集:日本人材ニュース編集部)
かつての人事部は昇進が早いエリート部署
これまで社員の黒衣的存在だった人事部が脚光を浴びている。人材投資に重点を置く「人的資本経営」の重要性が投資家を中心に世界中で叫ばれはじめているが、企業内で人材投資の役割を担っているのが人事部だ。
かつて昇進が早いエリート部署といえば、人事部と経営企画部(室)だった。誰を昇進させるかという人事戦略や新規投資などの事業戦略の立案は経営トップの最大の仕事であり、人事部と経営企画部は経営に最も近い片腕的存在だった。
人事部の課長、部長を務めると間違いなく取締役に昇進し、数多くの社長を輩出したものだ。とくに高度成長時代は製造業を中心に社長の多くが人事部出身者で占められた。
優秀な新入社員は人事部へ
人事部に配属される社員は採用段階から目を付けられた。
かつてゼネコンの人事部長は「これはと思う学生は人事部に入れる。下手に営業に配属させ、数年後に引き抜こうとしても抵抗される」と言った。
採用権限を持つだけに優秀な学生を配属しやすい。人事部の仕事は採用、教育、福利厚生、給与・退職金、異動・昇進、人事制度企画、労組対策など多岐に分かれる。
中でも出世コースは人事(企画)課と労政(労働)課。人事課は管理職の人事考課と異動に関する権限を持ち、労政課は賃上げ交渉など労働組合対策の実務を担当する。労使紛争が激しい時代は労政課の権限が大きく、ストライキを終結させるなどの実績を上げれば、次期人事部長の椅子が待っていたものだ。
人事部に代わり経理・財務部が台頭
しかし1990年代後半以降、ROE(株主資本利益率)が重視される経営が主流になり、人事部に代わって経理・財務部出身者が重用され、CFO(最高財務責任者)が脚光を浴びる時代に転じた。
その影響は経済界にも及んだ。2000年代初頭、経団連の役員を務める人事部出身の大手企業の元会長は「人事部出身の社長が少なくなってきたなあ。話が通じる人もだんだんいなくなっていく」と嘆いていた。
人事部の凋落は経済界にも及び「財界労務部」と呼ばれた日本経営者団体連盟(日経連)は経団連に吸収された。
人事部にとってバブル崩壊後の30年間は受難の時期
実は人事部の凋落と、後ろ向きの人材投資が“失われた30年”と呼ばれる日本経済の停滞をさらに悪化させたのではないかと密かに考えている。
事実、バブル崩壊後の30年間は人事部にとって受難の時期だった。人材育成とは真逆の採用抑制や人員削減、事業再編に伴う合併・分割作業を強いられ、あるいは労働法制改革の波に翻弄された。
経営環境の深刻化に伴い、企業各社は固定費の削減を収益改善策の緊急避難的な手段として「希望退職者」を募集することで大幅な人員の削減に着手した。
人員削減はもちろん人事部の発意ではなく、経営の要請だった。人事担当者も複雑な思いを抱え、社員の再就職活動に奔走した。
当時、大手金属メーカーの人事担当者は「再就職先がなかなか見つからない人も多く、人事としては少しでも路頭に迷う人を少なくするために退職する社員の職務経歴書を鞄に入れて、群馬や山梨にある工業団地の企業を一軒一軒回り、飛び込みで社長に面会し『僭越ながら人の採用はなかなか大変だと思いまして、ぜひ紹介したい人がいます』と挨拶し、再就職探しに走り回った」と語ってくれた。この人事担当者も業務を終えた後に退職している。
就職氷河期が大きな社会問題に
社員のリストラを避けるには業績が悪化する前に新規事業などの構造改革も必要だ。
なぜそれができなかったのか。2000年代に大規模リストラを実施した大手メーカーの元人事担当役員は「本来は経営が安定している時に構造改革をするべきだが、先が見えている経営者はそんなにいなかった。逆に先を見越して改革しようとすれば反発を招く。反発を恐れて改革に躊躇する経営者も多かった」と、後に述懐している。
この時期に出口の人員削減だけではなく、入口の新卒採用の抑制も発生した。採用をストップし、就職氷河期が長く続き、ロスト・ジェネレーション(失われた世代)と呼ばれるように大きな社会問題となった。
大卒新卒者に対する求人倍率は1992年3月卒の2.41倍から93年卒は1.91倍と徐々に低下。一時期回復するかに見えたが、99年卒は1.25倍、2000年卒は0.99倍と1倍を切った。新卒採用抑制が続く中、就職率も下落。2000年卒の就職率は55.8%と60%を切っている。
卒業後に就職も進学もしない「新卒無業者」は91年に2万2121人だったが、2000年は5倍以上の12万1083人に達した。
就職氷河期は人的資本を軽んじた典型例
もちろん人事担当者の中には長引く採用抑制に危機感を持つ人もいた。
精密機器メーカーの人事部長は当時について「採用を止めたらいずれ中堅の人材が枯渇するのは目に見えていた。少しでも採用してほしいと経営陣に言っても、人件費を減らせ、の一点張りだった。その後、部下なし主任や係長が現れるなど異常な人員構成になったが、不況期でも新卒採用は続けないといけないという大きな教訓になった」と語る。
就職できずに無業化、非正規化する若者という社会問題の発生と同時に企業の戦力の喪失はその後の日本経済にとっても大きなダメージを与えたに違いない。
就職氷河期の発生は今でいう人的資本の蓄積を怠った、あるいは軽んじた典型例と言えるかもしれない。
「成果主義」人事制度の流行と失敗
また、企業は人事制度でも大きく舵を切った。1990年代後半以降、従来の「能力主義」(職能給等)に代わって、仕事の「成果」に応じて賃金を支払う「成果主義」人事制度が流行する。しかし、富士通の成果主義の失敗が報道されるようになり、人件費削減目的ではないかという社員の疑念を生んでいく。
当時、会社が推進する成果主義に複雑な思いを抱く人事担当者も少なくなかった。機械メーカーの人事課長は「成果主義というのは目的ではなく手段にすぎない。企業業績を上げるために賃金の支払い方、昇進の基準をどうするかを考えるべきなのに、大目標をなおざりにして制度だけをいじくっている気がする。そもそも成果を測定して配分することをいくら考えてもパイは増えない。パイを増やすほうになぜか思考が及ばずに、制度を議論しているのが疑問だ」と語っていた。
派遣切りが横行、問われる日本社会のあり方
2008年のリーマンショック後に、“派遣切り”が吹き荒れ、東京・日比谷公園の年越し派遣村も話題になった。そんな中、派遣社員全員を正社員に転換させたのが大手段ボールメーカーのレンゴーだった。
その理由について大坪清社長(当時)は「一時、会社は誰のものかという議論が流行し、アメリカ的な株主資本主義が叫ばれるなど、日本企業はずっとそれに対応せざるをえない状況が続いてきた。これは悲しいこと。日本の経営者はここで踏ん張って日本のニューソサエティとはこういうことだと示すべきだった。ところがキヤノン、トヨタといった日本を代表するトップ企業が派遣を切る事態となった。本来ならそういう企業こそ率先垂範して日本の社会のあり方を企業として見せるべきだった」と語っている。
そして大坪社長は人的資本の重要性をこう語っていた。 「経済は土地と資本と労働を使って、対価である商品・サービスをつくり出すというのが大前提。なかでも労働は一番神聖なもの。派遣というのは変動費でカバーする以上、商品化していることと同じだ。株主への配当を削ってでも労働は守ったほうがよいというのが私の基本的な考え方だ」
人事部が主導権を握る時代へ
派遣であっても働き手を3年で放逐するのは人的資本の形成にとってもマイナスだろう。大坪社長の考え方は今のステークホルダー経営や人的資本経営にも通じる。 これまで見てきたようにこの30年の間に人事部が凋落し、本来の力を発揮できないまま採用の抑制、入社後の給与、昇進、そして人員削減に至るまで、後ろ向きの仕事に追われ続けてきた。
人材投資に重点を置く「人的資本経営」が注目を浴びる中、本来の仕事である”人を活かす”力を取り戻し、これを契機に人事部が主導権を持って今後20年先の人材戦略を描いてほしい。