人材育成

人的資本を投資家が評価 人材育成の追い風となるか【2023年 育成・研修計画】

溝上憲文 人事ジャーナリスト

溝上 憲文 人事ジャーナリスト
新聞、ビジネス誌、人事専門誌などで経営、ビジネス、人事、雇用、賃金、年金問題を中心に執筆活動を展開。近著に、「人事評価の裏ルール」(プレジデント社)など。

人的資本情報に関する記載が2023年度の有価証券報告書から義務化される。人材育成方針や能力開発施策に対する関心が高まることが予想され、各社は人的資本経営に向けた人材戦略の再構築に迫られている。(文:日本人材ニュース編集委員 溝上憲文、編集:日本人材ニュース編集部

「人材版伊藤レポート」は経営戦略と人材戦略の連動の重要性を強調

人的資本経営における「人材投資」に注目が集まっている。その契機となったのが、経済産業省が2020年9月に公表した「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告」、通称「人材版伊藤レポート」だ。

「人的資本」とは一般的には「従業員と従業員の持つ能力・スキル・知識等の価値を生み出すための企業の投資ととらえる概念」、あるいは「人材が保有する経験や知識・スキル・能力およびイノベーションへの意欲、戦略の遂行能力」と説明される。人的資本経営は伊藤レポートでもそうした人的資本の形成をもたらす経営と定義されている。

とくに経営戦略と人材戦略の連動の重要性が強調され、①目指すべきビジネスモデルや経営戦略と現時点での人材や人材戦略との間のギャップを把握できているか、②人材戦略が実行されるプロセスの中で、組織や個人の行動変容を促し、企業文化として定着しているか――という点が要諦とされている。

人的資本経営自体は人事関係者にとっては決して新しい意味を持つ言葉ではない。人的資本=人材の活性化をどうするかについては長年議論されてきたテーマだ。人的資本経営とは昔から言われる「人を大切にする経営」とも言い換えてもよいだろう。

しかし、実態としては日本企業の人材投資は国際的に見ても高いとはいえない。厚生労働省の「労働経済白書」(平成30年版)によると、能力開発費(企業内外の研修費用等を示すOFF-JT)の対GDP比の主要先進国との比較では、米国2.08%、フランス1.78%、ドイツ1.20%、英国1.06%に対し、日本はわずか0.10%にとどまる(2010~14年)。

しかも米国、フランスはこの比率が高まる傾向にあるが、日本は低下傾向にある。企業業績の低迷も背景にあると思われるが、一方で企業の現預金や内部留保はこの10年で大幅に積み上がっている。にもかかわらず人材投資が減少している。

「人的資本可視化指針」を8月末に公表

政府も人的資本経営の推進を後押しする。6月7日に閣議決定された「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」の中で「人的資本等の非財務情報の株式市場への情報開示と指針整備」が盛り込まれた。この中で「人的資本をはじめとする非財務情報を見える化し、株主との意思疎通を強化していくことが必要である」と述べているように背景には投資家の圧力がある。

株式市場への情報開示は「本年内に、金融商品取引法上の有価証券報告書において、人材育成方針や社内環境整備方針、これらを表現する指標や目標の記載を求める等、非財務情報の開示強化を進める」と言及。

指針整備は「企業側が、モニタリングすべき関連指標の選定と目標設定、企業価値向上との関連付け等について具体的にどのように開示を進めていったらよいのか、参考となる人的資本可視化指針を本年夏に公表する」としているが「人的資本可視化指針」は8月末に公表されている。

人的資本情報の開示については経理・財務やIR部門とは無縁の人事関係者とっては唐突の感が否めないだろう。それが投資家の間でなぜ盛り上がっているのか。その契機となったのがリーマンショックだ。機関投資家などが財務指標だけを見ても企業の将来の予測は難しく、非財務情報に将来の予測性があるのではないかと認識し始めた。

その結果、ESG(環境・社会・ガバナンス)投資が浮上し、最初に気候変動リスクが注目され、次いでガバナンスに焦点が当てられ、ガバナンスコードなど情報開示が義務化されていく。その過程で企業業績と密接に関係しているのがESGの「S」だという認識が広がり、Sスコアをどのように可視化するかについて金融関係者が強力にプッシュする形で人的資本の情報開示の流れが世界的に加速した。

EU(欧州連合)は2014年2月に加盟国に非財務情報の開示を義務づける法律を施行。具体的な開示項目は規定していないが、行政府のEU委員会はガイドラインの中で多様性、雇用・労働条件、労働組合関係、報酬システム、従業員のトレーニングとキャリア管理、従業員の健康と安全等の開示を挙げている。21年4月には法律(EU指令)を改定し、対象企業を拡大。今年10月に人的資本を含むESGの情報開示ルールを策定する予定だ。

米国では米証券取引委員会(SEC)が20年8月に上場企業に人的資本に関する情報開示を義務化。非財務情報の開示項目が改定され、自社のビジネスを把握·理解するために必要な範囲での人的資本の開示・説明を要請している。具体的な開示項目は規定されていなかったが、米国連邦議会の下院では具体的な8項目を規定した「Workfoce Investment Disclosure Act」が通過し、現在、上院で審議中だ。

有価証券報告書への記載が義務化

日本では前述の有価証券報告書で義務化される予定の開示項目や指針についてはすでに原案が提示されている。23年度から有価証券報告書に記載義務が生じる人的資本の開示項目については金融庁の金融審議会の「ディスクロージャーワーキング・グループ報告」が6月13日に示されている。

具体的には「人材育成方針」(多様性の確保を含む)や「社内環境整備方針」を有価証券報告書のサステナビリティ情報の開示項目とするほか、女性管理職比率、男性の育児休業取得率、男女間賃金格差について有価証券報告書の「従業員の状況」の中の開示項目とするといったものだ。

開示内容のグローバルスタンダード化が進む可能性

人的資本可視化指針の検討は内閣官房の「非財務情報可視化研究会」(伊藤邦雄座長)で行われた。指針では「価値向上」と「リスクマネジメント」の観点から7領域19項目の開示事項を例示している。領域では「育成」(リーダーシップ、スキル・経験等)、「エンゲージメント」、「流動性」(採用、サクセッション等)、「ダイバーシティ」(育児休業等)、「健康・安全」(精神的健康、身体的健康、安全)、「労働慣行」(賃金の公正性、福利厚生、組合との関係等)、「コンプライアンス/倫理」の7つ。

さらに具体的な項目では、ISO(国際標準化機構)が発表したISO30414(ヒューマンリソースマネジメント―内部及び外部人的資本報告の指針)、グローバル・レポーティング・イニシアチブ(GRI)、世界経済フォーラムなどの開示項目を挙げている。

「人的資本可視化指針」で7領域19項目の開示事項が例示された

(出所)内閣官房 非財務情報可視化研究会「人的資本可視化指針」

国際機関・団体の開示項目を網羅しているだけで、日本特有の開示項目を示しているわけではない。開示項目についてリクルートHRエージェントDivisionリサーチグループの津田郁研究員は「19項目については先行している欧米の指標を参考に作られており、とくに目新しい感じはしない。人的資本情報のフレームワークは世界中でできているが、ISO規格は先行するESGに適合している規格として使っている企業もあるが、トヨタ、ソニーのサステナビリティレポートはGRIを使っていると書かれている。現時点で開示項目のグローバルスタンダードはない。おそらく世界共通項目以外に日本の労働市場で大事な項目についても議論されてくるのではないか」と語る。

人的資本情報の開示については現時点ではさまざまな指標が乱立している状態にあり、グローバル共通の指標は存在しない。当初は企業の任意で開示することになるだろうが、いずれ開示項目・内容のグローバルスタンダード化が進んでいく可能性がある。

ただし相手は投資家である。機関投資家も非財務情報の重要性は認識していても、どんな項目のスコアが高ければ企業価値を高め、中長期的な企業業績の向上につながるのかよく理解しているわけではない。

内閣官房の指針案が例示している個々の情報開示項目については、外部に公表していないものの、すでに人事部内や社内で測定し、把握しているものも多い。健康・安全などのリスクマネジメント項目やダイバーシティ、エンゲージメントなどについては測定結果に基づき、人事施策を講じている企業も少なくない。

人的資本の開示に向けた取り組みが本格化

●人的資本に関する各指標の測定の実態

(出所)デロイトトーマツグループ「人的資本情報開示に関する実態調査」

企業の持続的成長へ 人材をいかに強化するか

政府の人的資本情報の開示の動きについて冷ややかな見方をする人事関係者も少なくない。サービス業の人事部長は「投資家向けのアニュアルリポートの作成ではIR部門の要請を受けて働き方改革や人材育成の取り組み状況のデータを含めて人事部が手伝うことが以前に比べて増えているのは確かだ。ただ、今回の人的資本情報の開示の動きは証券筋や政府、とくに金融庁や経産省が強くプッシュしている印象が強く感じられる。上からこうしろと言われることに違和感を覚える」と語る。

また建設関連会社の人事担当役員は「当社は人事ポリシーや中期経営計画に基づいて人的資本の活性化に向けて取り組んでいる。人的資本情報の開示は時代の流れなので致し方ないと思う反面、外圧で数値を出すというのは本来のあり方とは違うのではないか。上から言われた数値の比率を上げるために施策を講じることは本末転倒になりはしないか」と懸念する。

こうした違和感や懸念は至極もっともである。過去に経営から指示されて女性管理職比率や男性の育休取得比率を上げるために地道な施策の推進なしに数値を作り上げた弊害も記憶に新しい。人的資本情報の開示で大事なことはそれに追随して人事施策を抜本的に見直すことではなく、自社の「人事ポリシー」を明確化し、それに基づいて人的資本の開示項目を取り入れて人材の活性化策を地道に推進することだろう。

人的資本に注目が集まること自体は人事部にとって歓迎すべきことである。前出の建設関連会社の人事担当役員は「人への投資という観点では、以前は投資家には人件費はコストとしか見られていなかったが、人への投資がプラスと評価されることは良いこと。当社は人が最大の資源と言ってきた。すでに新しい研修施設の建設を来春のオープンに向けて進めている。投資家にどんな投資をしているかと聞かれたらアピールできるし、人材育成を重視する企業にとってはフォローの風と言える」と評価する。

国際比較のエンゲージメントサーベイでは日本企業は低いとされ、前述したように能力開発費用も国際的に少ない。人材投資が世界的に注目される背景には、経済社会のデジタル化が進展し、企業の持続的成長にとって無形資産の重要な柱である人材をいかに強化するかが重視されているからだ。経済のデジタル化に対応した人材育成など人材投資の現状を放置したまま、今後人的資本情報の開示が進んでいくと、企業経営に負の影響をもたらす可能性もある。

そのときに矢面に立たされるのは人事部である。人的資本経営のフォローの風を活かすには従来から人事部内で議論されてきた人材に関する施策を含めて自社の人事戦略を再構築し、経営に積極的に働きかけるとともに、経営と一体となって推進していくことが求められている。

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溝上憲文

人事ジャーナリスト/1958年生まれ。明治大学政経学部を卒業後、新聞、ビジネス誌、人事専門誌などで経営、ビジネス、人事、雇用、賃金、年金問題を中心に執筆活動を展開。主な著書に「隣りの成果主義」(光文社)、「団塊難民」(廣済堂出版)、「『いらない社員』はこう決まる」(光文社)、「日本人事」(労務行政、取材・文)、「非情の常時リストラ」(文藝春秋)、「マタニティハラスメント」(宝島社)、「辞めたくても、辞められない!」(廣済堂出版)。近著に、「人事評価の裏ルール」(プレジデント社)。

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