「先月まで普通に働いていたのに、突然辞めると言ってきた」
「引き留めようとしたら、もう気持ちは固まっていると言われた」
人事担当者や管理職の方から、特に「辞めてほしくない社員」に関してこうした声をよく聞きます。退職の連絡を受けた時、多くの会社は「突然のことで驚いた」と感じます。しかし、本当に突然だったのでしょうか。
今回は、40代・金融機関勤務の女性と、キャリア相談者・佐野創太氏との相談の様子を通じて、退職を考える社員のリアルな心境と思考プロセスを佐野氏に連載で解説してもらいます。
佐野氏は退職学®︎(resignology)の研究家としてこれまでに1500人以上のキャリア相談を実施し、20〜50代の幅広い社員の本音に触れ続けています。その経験を『脱 会社辞めたいループ』(サンマーク出版)、『ゼロストレス転職』(PHP研究所)、『転職・退職を考えたら知りたいことが全部のってる本』(主婦の友社)、『70%で働く』(日経BP)といった著書にまとめています。
他にもエース社員の退職を防いで「選手層の厚い組織づくり」を支援したり、オウンドメディアや採用広報などの情報発信の生産性と創造力をあげるAI編集長としても活動しています。働く人、組織作り、事業の3つの視点を持っています。
「突然辞めた」ように見える退職には、会社が気づきにくい長いプロセスがあります。そのプロセスを理解することが、びっくり退職を防ぐ第一歩になります。
「元気そうに見えた社員」の内側で何が起きていたのか。会社づくりの一助となれば幸いです。(文:佐野創太、編集:日本人材ニュース編集部)
※プライバシー保護のため、相談者の名前・性別・年齢・所属企業名等は編集しています。

「突然辞めた」は本当か
「落ちてほっとした気持ちも、正直ありました」
Tさんがそう語ったのは、志望していた企業の選考に落ちた直後のことでした。転職サイト経由でスカウトが届き、カジュアル面談から2次面接まで進んだ案件です。手ごたえも感じていた。それでも、不合格の通知を受けた時は安堵が先に来たと言うのです。
私(佐野)はこの言葉の矛盾に注目しました。
やりたい仕事に落ちて、なぜほっとするのか。それは、Tさんの中に「やりたい気持ち」と「またあの苦しさを味わうのか」という二つの感情が同時に存在していたからです。投資銀行の営業職で経験するプレッシャーの重さは、よくわかっていた。だから「入社しても本当にやれるのか」という問いが、ずっとそこにあった。
この矛盾こそが退職プロセスのはじまりです。
Tさんは前年の12月から休職していました。職場環境の問題に加え、入社のタイミングで父親が病気になり、両方が重なったことが大きかったと言います。会社側から見れば「体調不良で休んでいる社員」です。元気そうに見えていた時期も、数字という責任を背負いながら、社会の仮面をかぶり続けていた。他者と比較して消えたくなるような瞬間も、あったと明かしてくれました。
外からは見えない。それがびっくり退職の構造です。
会社が「突然辞めた」と感じる退職の多くは、実際には長い時間をかけて準備されています。社員が正直に話せない理由も、この事例によく表れています。Tさんは転職活動において、休職中であることを隠し、居住地もぼかしながら活動を続けていました。エージェントに正直に話した時は「まず治してください」と言われ、そこで話が打ち切られたという経験もあるからです。 人間として扱われるわけではない。「欠陥のない商品かどうか」みられていると感じたそうです。
繭期に入った社員に、何が起きているか
結論を先に言います。Tさんが経験していたのは、退職ではなく変容のプロセスでした。
いわば「繭期退職」です。蝶が羽化する前に繭の中で静かに変態するように、社員が次の自分へと変わっていく時期があります。外から見れば「何もしていない」「元気がない」「突然辞めた」に見える。しかしその内側では、自分が何者なのかを問い直す、深い作業が進んでいます。
Tさんの繭期にはいくつかの段階がありました。
まず、好きなことに戻る段階です。Tさんは回復の実感をこう語りました。
「資格の勉強をやめて、しばらくテニスだけしようと思います。それで治った感じなんですよね」
この言葉は重要です。諦めが回復の入口だったのです。
次は仮面が剥がれる段階です。
「ずっと社会の仮面をかぶってたな、みたいに思う瞬間があって」とTさんは言いました。数字という責任を背負い続けることで保たれていたアイデンティティが、休職によって剥がれます。外部評価への執着や他者との比較、それらを少しずつ手放していく時間こそが、繭期の本質です。
そして何者かが見えてくる段階があります。
「どっちかというと、学問とか芸術とか思想とか。多分そっちが私を形成しているんです」
Tさんが資本主義の世界に飛び込んできたのは、キャリアのためではなく、好奇心からだったと気づいた瞬間がありました。大学院で研究者の友人たちから本を勧めてもらいながら育ててきた知的な関心が、実は自分の核だった。 繭期を経た社員は以前とは違う「何者か」として動き始めます。この段階になると、給与や役職での引き留めはほぼ効きません。その人が問い直しているのは条件ではなく、自分のアイデンティティだからです。
繭を破ってしまう組織、守れる組織
場面を変えます。
Tさんが転職活動中に「正直疲れた」と語った理由は、選考の厳しさだけではありませんでした。休職中であることを隠し、居住地を偽り、やりたくない仕事の求人も眺め続けるという、二重三重の消耗が積み重なっていたからです。
ビジネスの世界が、知らないうちに社員に嘘をつかせている。
これがびっくり退職を生む構造の一つです。正直に話せば選考が止まる。正直に話せばエージェントに切られる。その環境が社員をさらに孤立させ、退職の準備を静かに加速させます。
では、繭を守れる組織とはどういうものなのでしょうか?
Tさんとの対話の中で浮かび上がった視点は「攻めと守りの両立」です。またバリバリ働きたいモードに戻った時に備えて、今のうちから「守り」を設計しておく。以前相談を受けた別の方は、再び激しく働き始める際に実家を離れることへの不安を感じ、両親とのLINE通話を設定し、見守りロボットを導入することで「繋がっている感覚」を保ちながら前進できたという話を共有しました。
繭期にある社員に必要なのは、早く戻ってくることへのプレッシャーではありません。
以下のような兆候が社員に見られた時、組織はどう動けるかを考えてみてください。
- これまで積極的だった社員が、会議で発言しないことが増えた
- 転職活動をしているような気配があるが、本人は話さない
- 休職や体調不良の背景に、仕事以外の家族の事情が重なっている
これらは「問題社員のサイン」ではありません。繭期に入った社員が内側で変容を進めているサインです。この時期に「なぜ元気がないのか」「いつ戻れるのか」と迫ることは、繭を外から破ることに等しい行為です。 Tさんは最終的に、こんな言葉で相談を締めくくりました。
「しばらくは自分の信じる道をがむしゃらに進んでみようかなと」
これは回復の言葉であり、変容が完結に近づいている合図でもありました。
「びっくり退職」は、準備された退職だった
繭期退職とは突然起きるものではありません。
社員の内側では長い時間をかけて変容が進んでいます。社会の仮面を脱ぎ、自分が何者かを問い直し、やりたいことと向き合い、次の一歩を静かに準備している。その過程が、組織からは「突然」に見えるだけです。
ただ、私は組織開発を経営者の方と進める中で、いつも突き当たる問いがあると感じています。
確かにびっくり退職を防ぎたいなら、必要なのは引き留めの言葉ではありません。しかし、そもそも繭期の社員をサポートするのかどうか。繭期退職が突きつける問いはこれなのです。
この問いへの答え方に、会社の価値観が表れます。ほとんどの会社は「そこまでサポートできない。だから採用に力を入れよう」としています。それも一理あります。繭期のサポートは会社の資産である人材のサポートを超えます。ひとりの人間と向き合うことになるからです。
社員の退職はただの危機を告げるサインではありません。会社の価値観を問い直す問いです。そもそも社員のアイデンティティレベルの変化まで、会社は付き合うのか。付き合うのならば社員が繭期に入る前に、正直に話せる環境があるかどうか。繭期に入った社員に、余計な圧力をかけていないかどうか。 びっくり退職の正体を知ることで、「どんな会社にしていくか」の方向性を言葉にする機会になれば幸いです。経営からマネジメントまで、足並みが揃った会社に社員はついていきます。

佐野創太
1988年生。慶應義塾大学法学部政治学科卒。大手転職エージェント会社で求人サービスの新規事業の責任者として事業を推進し、業界3位の規模に育てる。 介護離職を機に2017年に「退職学®︎」の研究家として独立。 1400人以上のキャリア相談を実施すると同時に、選手層の厚い組織になる”リザイン・マネジメント(Resign Management)”を50社以上に提供。 経営者・リーダー向けの”生成AI家庭教師”として、全社員と進める「ゼロストレスAI術」を提供する他、言葉を大切にするミュージシャン専門のインタビュアーAIを開発している。著書に『「会社辞めたい」ループから抜け出そう!』(サンマーク出版)、『ゼロストレス転職』(PHP研究所)がある。











